流通史上に名を残す大成功といっていいだろう。
その発展ぶりだけでも、レアケースといえるほどなのである。
しかし、驚くことにイトーヨーカ堂にとってはもちろん、日本の流通業界にとってもコンビニエンスストアのチェーンは初めてのシステムなのに、実はSE・ジャパンは、米国SEの経営哲学、運営方式を単純にそのままコピーしたわけではないのである。
最近では、海外企業が日本に進出する場合は、車のハンドルを右に付け替えたり、洋服や靴の寸法を変えるなどの日本を意識した製品づくりや、営業マンを増やしたり、日本の流通機構を使うなど「郷にいっては郷にしたがえ」といったマーケティングを行なっているのが常識だ。
だが、SE・ジャパンが羽ばたこうとしていた第一次オイルショック前、日本の高度成長期の最終場面では、家電など一部の分野を除けば、日本ではまだ欧米の技術や商品や企業に対する劣等感が広く産業界や消費者に残っており、米国が最先端をいく小売り・サービス業では、なおさらのことだった。
ところが、1974年にコンビ二エンス事業を始めるにあたって、SE・ジャパンの首脳陣は、米国サウスランド社流をそっくりそのまま導入するという完全コピー方式を採用しなかった。
といって堅実路線の「イトーヨーカ堂」本体の既存スーパー手法を採用したわけでもない。
サウスランド社との契約に汗を流したSら、流通業界以外の出身者を数多く加えて、アイデンティティーをもったスタイルを独自に模索してスタートしたのである。
むしろ、こうした日本の流通業の既成概念に影響されないところからビジネスをスタートさせたところに、このチェーンを成功に導くことになった重要な秘密が隠されているともいえる。
ではSらは、米国ですでに実績を挙げており、日本からみても革新性のあるサウスランド社流のやり方を、なぜ、そっくりそのままコピーしなかったのか。
なぜ、それが成功につながったのか。
再び、当時を振り返ってみることにしよう。
ヨークセブンが発足した1973年の暮れ、ヨークセブンは米サウスランド社で研修をうけるために、3月初めにさっそく5人のスタッフを送った。
続いて6月中旬には、このプロジェクトを当初からリードしてきたSと、その女房役として米サウスランド社との契約などでダフなネゴシエーター役を見せたF英雄のふたりが訪米した。
さらに年末になってまた5人のスタッフが、第3陣として米国サンディエゴ郊外にあるサウスランド社のトレーニングセンターに赴いた。
そして、もう1つ覚えておいて欲しいのがスクールバッグの長所は、スクールバッグそれ自身の構造によるところが大きいということです。
